KGKヒデ主事の徒然日記

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救いの証し?

救いの証し?

私にとって洗礼とは、
「イエス・キリストを受け入れたから、その記念として洗礼を受けるもの」
という理解でした。

つまり、キリスト者として本気で生きていくという決心は微塵もありませんでした。

だから、洗礼を受けてから、日曜学校だけでなく、
礼拝への出席も求められたり、聖書を毎日読んだり、
定期的に献金を捧げることを言われるようになったのは、苦痛でした。

当時の私としては「えっ、なぜここまでやらなくちゃいけないの?」という心境でした。

私はその後も先のキャンプには参加し続け、
また、所属教会の中高科ではディボーションの励行がなされていたので、
聖書を毎日読むことはわりかし素直にしていました。

ディボーションは励まされる時もありましたが、
大方はただ空欄を埋め、それらしいことを書いておけば、
「一丁あがり」という『作業』でした。

高校生のある時、自分はこの営みを
「自分は死ぬまでやり続けなければならないのか」とふと思った時、
残された人生の長さの途方もなさに溜息をついたことを覚えています。

このように、受洗してからの歩みは、信仰を持つことゆえの喜びよりは、
窮屈さを覚えることの方が圧倒的に多くありました。

こうした中、高校3年生の時に参加したあるキャンプで、
一つの転機がおとずれました。

その時の講師がエレミヤ21:8や黙示録3:15,16から信仰のなまぬるさを痛烈に、
明確に指摘されました。

当時の私は自分の信仰がいい加減だとは思いつつも、
しかし、一応毎週教会にも通い、聖書も毎日読んでいる、
体裁は整えている、そうした自負心がありましたが、
そうしたものを打ち砕くメッセージでした。


明日へ続く

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