KGKヒデ主事の徒然日記

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説教演習を前にして

私が説教を一番している「場」は、
実はKGKのブロックではない。

教会の日曜学校である。

大学2年から中高科の教師となり、
ほぼ毎月1回のペースで説教をしている。

今もそうだ。

当時の説教を時たま読み返してみると、
目を瞑りたくなるようなものが多い。

当時は、

画を書いてみたり(これがまた…)
指人形を使ったり(アンパンマンの…)
ひとり劇をしてみたり(空回った…)

と、色々とやっていた。

もちろん、遊んでいたわけではなく、
中高生たちに分かりやすく、
御言葉を受け取ってもらおうと思ってのことだった。

しかし、「今じゃできないな」と思ってしまう。

この「今じゃできない」という変化は、
説教というものを多少なりとも
理解してきたからだと思う。

神の言葉を取り次ぐことの恐れを、
知り始めたからだと言える。

このことは、釈義することに
時間をかけるようになった。

”いかに”伝えるかよりも、”何を”伝えるかに重きを
置くようになったと自分の中では受け止めている。

”いかに”より”何を”が優先されるのは、
言うまでもない。

ただ、”いかに”もまた軽視されるべきではない。

学生時代の僕が、今より中高生たちに
御言葉が届くようにと意識していたかどうかは
分からない。

ただ、届くためなら何でもやるという
気概はあったように思う。

そうした気概自体は、意味あるものではないかと思う。

「今じゃできないな」

ということで守られてきたものもある。

しかし、それと同時に、
御言葉が持つ力強さ、インパクト、ダイナミックスさを
殻に閉じ込めてしまったのではないかと思う。
(学生時代の説教にそれらのものがあったとは思わないが)

実は今度の日曜日に中高科で初めて説教演習をする。

私が担当だ。

説教も担当。

説教演習を前に、自分の説教を吟味する日となった。
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