KGKヒデ主事の徒然日記

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教会史を学ぶ意義

このブログでも何度か書いたので、
知っている方もいらっしゃると思うが、
私は4月から毎週月曜日の夜に、
神学校の聴講に行っている。

教会史の授業を取っている。

KGKで同期のM君や今年I大を卒業した
M君などの知り合いがいるので、
学びをしていて心強い。

たいてい前者のM君と一緒に帰る。
(寂しいわけではないが…いや、やっぱり寂しいのか?)

たいていその日の授業の内容を振り返る。

たいてい授業の内容に唸っている。

(「たいてい」を3連続で重ねてみました)

今週の帰り道は、教会史を学んでいると、
視点が広がるという話になった。

ちょうど、その日の授業で、コンスタンティヌスが
キリスト教に与えた影響についてであったからだ。

「えっ、それってどういうこと?」

彼がローマ帝国の皇帝になり、キリスト教徒への
迫害はなくなった。(完全にではないが)

礼拝の様式には、古代の神々を祭っていた時の儀式の一部が、
取り入れられて変化したり、祭司の立場も特別化していった。

また、国家と教会の関係が緊密になり、教会を一つにまとめるためには、
教義を一致させる必要が生じ、ニカイア公会議が開かれた。

公神学という、コンスタンティヌスを神の摂理と結びつける
思想が登場した。

それに反動してか、キリスト教の世俗化を危惧して、
陰道士、修道士、修道院が登場し、発展した。

このように、コンスタンティヌスの登場は、
キリスト教会に大きくかつ様々な影響をもたらした、という授業だった。

これらの変化は、その時代のレスポンス(orリアクション)として
ある種の必然だったのだろう。

安易にコンスタンティヌスの登場やその影響を、
神の御心かどうかと判断することはできない。

むしろ、私たちは、このコンスタンティヌス登場以後の延長線上に、
生きているという自覚することの方が大切だろう。

歴史の大河を見渡す中で、私たちの潮流は今どのように流れ、
これからどこへ向かうべきなのか?
という視点を養うことが大切なのだろう。

こんなことを考え、また、M君と話していた中で、
神の御心ということに話が及んだ。

M君が、
「教会史を学んでいると、簡単にあれは神様の御心だったとは言えないよね」
と言った。

まさしくそうなんだと思う。

僕らキリスト者はいつも神の御心を問いながら生きる、
求道者であるが、しかし、いつも神様の御心が分かって
生活できるというわけではない。

時間を経て、他の出来事と結びつくことによって、
初めてその時の出来事の意味が分かることがある。

教会史を学ぶ意義は、まさにそこにあると思う。

ある出来事の意味が、後の出来事と結びつき、
意味を与えてくれることだ。

そこに神様のご計画を覚える。

しかし、だからと言って、時を経れば、
神様の御心がわかるという公式でもない。

コンスタンティヌスの与えた影響も、およそ1700年が経つ今も、
未だ意見がわかれるところらしい。

むしろ大事なのは、僕らは、否定しようと、肯定しようと、
その過去を礎にして今という時代を生き、作り上げていることだ。

うーん、教会史の授業は楽しいな?♪
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