KGKヒデ主事の徒然日記

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

別窓 | スポンサー広告
∧top | under∨

教会史?修道院から考

修道院。

プロテスタントのクリスチャンには、
あまり馴染みがないかもしれない。

この修道院の起源について、
教会史の授業で学んだ。

時代は、前回のブログにも記した、
あのコンスタンティヌス大帝の頃だ。

コンスタンティヌス以降、
教会と国家の関係は緊密化し、
世俗化していく教会に警告を鳴らすような
形で修道院は発生したといえる。

キリスト者たちは教会から迫害が去り、
殉教への恐怖や希望を失った。

教会は帝国になびいていく。

しかし、信仰の修練を怠るわけにはいかない。

この末に出した結論が、砂漠に行くという選択だった。

当時、砂漠に行くことは生命の危険があった。

だから、人々が近寄るところではなかった。

それゆえ、修道士たちは砂漠を求め、そこで
信仰の鍛錬に励んだのだ。

だから、最初から修道院という形態をとっていたわけではなかった。

信仰者が自らの信仰に生きることを貫くため、
世から隔絶された砂漠へと向かった。

修道士という言葉はギリシア語で「孤独な」を意味する
モナコスに由来している。

孤独な生活を送る修道士を「隠修士」と呼ばれる。

ところで、このような人々はある時突然伝染病のように、
広まったようだ。

そのうちに、砂漠に住む隠修士が増え始め、
彼らの多くは老隠修士から学びたいと願うようになった。

これが修道院の始まりだと言える。

この修道院の始まりに大きく関与したのは、パコミウス。

祈りと黙想を教えることを理念とした。

そして、すべての所有物の放棄と上司への完全なる服従、
互いに仕え合うことを基本原則とした。

基本的に生活は貧しかったが、修道士たちが作った
製品が近くの市場で売られ、その稼ぎで生活を賄った。

また、貧しい人々や旅人をもてなすためにも用いられた。

そうした修道院に魅力を覚える人々は多かった。

世から隔絶されていたが、都市部の司教や学者は修道士の生き方が、
教家生活の手本になると考えて、彼らを訪ねた。

修道生活の理念は都市部の司教や学者を通して教会に広まった。

司教たち自身もまた、修道士化していった。

また、修道院の門を尋ねた多くは、非キリスト教徒であった。

このように、世から隔絶された砂漠に住みながらも、
世に影響を与えた修道士と修道院。

確かに彼らの生き方や姿勢から、現代の私たちも
学ぶべきことがあるだろう。

修道院は今もカトリックの中で生き続いている。


しかしだ。


最初に記したように、修道院が生まれたのは、
国家と教会が結びついたことへの強烈な反動であった。

だから、既存の教会を全否定して、砂漠へと逃れたのだった。

振り子が大きく逆に振れたのだ。

孤立と孤独を求めた先に待っていた誘惑は、
以前追い求めていた快楽に対してだけではなかった。

司教や教会の指導者ではなく、自分たちこそが
教会の正しい教えを判断するにふさわしいと考える誘惑もあった。

こちらの誘惑の方が厄介だった。

5世紀に、暴徒と化した修道士たちが、
自分たちの考えている正当主義教理を力ずくで
押し付ける事態にまでなってしまった。



全否定というレスポンスには魅力がある。

そこには新鮮さや躍動感があり、未来への期待を感じさせてくれる。

そう考えると、全否定のレスポンスは何であれ、
ある種の集客効果があると言える。

修道士や修道院においてもこの点は免れないだろう。

そして、全否定は、自分たちが正しいという孤立化を起こす。

真理は自分たちのうちにあると。

このように考えると、修道院を単純に「良かった」とは評価できない。

交わりから隔絶するとき、私たちは自分が罪人であることを
忘れてしまうか、罪の理解を矮小化してしまう。

そして、いつしか、世は悪で、自分たちは善という
パラダイムを構築してしまう。

そう考えると、キリスト者はどのように生きるべきなのか?

この世にあって、この世のものでない。

それがキリスト者の生き方なのだろう。




別窓 | 未分類 | トラックバック:0
∧top | under∨

この記事のトラックバック

∧top | under∨
| KGKヒデ主事の徒然日記 |
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。