KGKヒデ主事の徒然日記

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

別窓 | スポンサー広告
∧top | under∨

悔い改めの消失

キリシタン史の2回目。

講師はY主事。

今回は、遠藤周作の「沈黙」を題材に、
日本宣教の本質的な課題と向き合った。

沈黙が問いかけるもの。

それは何より「弱者の復権」

殉教してまで踏絵を拒み、信仰を貫いた者たち。

踏み絵をしてしまい棄教してしまった者たち。

後者を「灰の中に埋もれてしまった人たち」と呼ぶならば、
その人たちを再び歩かせることが遠藤の言う「文学」である。

「沈黙」はそのために書かれた。

踏絵をしてしまった者たちの足の痛み、
その痛みを一番知っていてくださるキリスト。
キリストは人々に踏まれるために、この世に生まれ、
その痛さを分かつために十字架を背負った。

もはや、

「踏まないで、信仰を貫くぞ」

という緊張感に生きなくて良い。

「踏んでもいい」

という優しいキリストの語りかけが聞こえてくる。

踏絵は裏切りではなく、
神と苦しみを共にする愛の行為。

以上が「沈黙」の語る踏絵理解。

もはや悔い改めはない。

この悔い改めの消失こそ、日本の教会が
透徹した眼差しで自らを省みなければならないことだ、
と、Y主事は語っていた。

「悔い改めの消失」

教会という共同体で目を背け、

「あれは仕方がなかった」
「これは仕方がない」

としてしまっている罪が明るみに出されることは
痛みが大きい。

でも、それなくして真の意味で教会は
建て上がらない。

「悔い改め」

この言葉の重さを覚える。


別窓 | 未分類 | トラックバック:0
∧top | under∨

この記事のトラックバック

∧top | under∨
| KGKヒデ主事の徒然日記 |
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。