KGKヒデ主事の徒然日記

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

別窓 | スポンサー広告
∧top | under∨

説教演習

091203_0206~01

説教演習

それは

『まな板の上の鯉になるときである』

--------

先週の月曜日に説教演習があった。

今回は私とN主事が説教演習をさせて頂いた。

主事は学生に対して、教会に対して、
説教する奉仕の機会が『感謝なことに』与えられている。

説教演習をすると、説教する機会が与えられていることが、
当然なのではなく、させて頂ける『感謝すべきものである』
ことを深く教えられる。

それは自分のようなものが説教者として立つことを
許してくださった憐れみ深い神様を知るからだ。

また、日頃説教を忍耐と愛をもって聴く学生や
神学校を卒業していない者を教会の講壇に立つことを
許してくださる教会の方々を思い起こすからだ。


さて、『まな板の上の鯉』と形容したが、
説教演習とはあの角度からこの角度からと、
あらゆる角度から容赦なく包丁(説教に対する批評)が入る。

説教者は批評者のコメントをじっと黙ってきているのだが、
その心中は、

「ずばっ」「ぐさっ」「ぐふっ」

といった鈍い音を立てている。
(少なくとも私は)

そのほとんどは、

「やっぱりそこをつかれてしまったか…」

というものだった。

自分の説教における課題、いや、説教者としての課題が
浮き彫りにされた。

それらはすぐに改善していけるものから、
時間をかけて取り組まなければならないものまである。

自分の説教者としての在り方の本質を問われるようなものさえある。

でも、どの指摘も説教者を建て上げる言葉として
発言してくださったので、どれも感謝な言葉であった。

まな板の上で鯉が味わう包丁の痛みは、
美しい刺身となっていくためのものなのだ。

だから、説教演習後に思ったのは、

「こんな説教ならもう自分は説教者をやめたい」

ということではなかった。

課題はあっても、なお、説教者として神と人が
立つことを許してくださっていることへの感謝。

また、その奉仕に厳かに、また誠実に取り組んでいきたいと
いう積極的な思いだ。


「また説教できることが楽しみだ」

と帰り道に思えたのは何とも感謝なことだった。


P.S.写真は説教演習の時の参加者からのレスポンスを書き記したもの

別窓 | 未分類 | トラックバック:0
∧top | under∨

この記事のトラックバック

∧top | under∨
| KGKヒデ主事の徒然日記 |
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。