KGKヒデ主事の徒然日記

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お辞儀の角度に現れた信仰

091204_2109~01
先月から、千葉にある神学校の校長先生を
されているY先生の日本教会史の学びが始まっている。

今回は教育と宗教の衝突というテーマ。

教育といっても、当時の教育は、教育勅語による
臣民化教育。

宗教と言っても、宗教全般ではなく、キリスト教。

つまり、今回のテーマは日本国とキリスト教の衝突
といっても差し支えないだろう。

今回も先生に余すところなく(いや、まだ足りなかったか?)
語って頂いた。

印象的だったことの一つに内村鑑三の不敬事件がある。

内村は勤務先の第一高等中学校の倫理公同で行なわれた
始業式での教育勅語の奉読式において、教育勅語に対して
『最敬礼』をしなかった。

このことが内村の不敬事件といわれる。

不敬事件といっても、最敬礼をしなかったのだ。
身体を90度にまで折り畳む最敬礼をしなかった。

つまり、内村は『敬礼』はしたのだ。

90度まで身体を折り畳まない。
この角度の中に、内村の曲げられない信仰の姿勢があったのだ。

教育勅語に対して最敬礼することは、内村の信仰の良心が、
それを許さなかったのだ。

しかし、

「お辞儀の角度なんて些細なことじゃないか?」

という声が一方ではあるかもしれない。

しかし、

「キリスト者として問われることは小さなこと」

だ、

と先生は話されていた。


「キリスト者として問われることは小さなこと」

私たちの日々の信仰者としてのあり方を吟味させる
言葉だ。


「この時代に生きるキリスト者として問われる小さなこととは何だろうか?」

と、帰り道の電車の中で考えた。
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