KGKヒデ主事の徒然日記

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信仰告白に生きること

2/11は信教の自由を守る日として、
教会では覚えられている。

明大前にあるA教会で開かれた
「信教の自由を覚える集い」に参加した。

講師は一昨年に主事会企画で、
バルメン宣言の学びを全10回にわたって
してくださったA先生。

今回の2・11集会でも、バルメン宣言を
取り上げて教会と国家の関係について
お話くださった。

信教の自由は教会と国家を考えること。

教会は信仰に生きる自由がある。

それは心の中で神を信じる自由だけではない。

その信仰を公に表明し、その信仰に基づいて社会で生きる自由だ。

バルメン宣言は、第二次世界大戦下に於いて、告白教会闘争の中で
生まれた。

「闘争と聞くと、鉢巻を頭に巻いたりイメージするかもしれませんが、
教会の戦いは信仰告白の戦いです」

と、A先生が仰っていたのが印象的だった。

教会がまずもってこの世に告白し表明するのは、
イデオロギーや政治的な政策ではない。

信仰告白なのだ。

「イエス・キリストは、我々すべての罪の赦しについての神の慰めであるのと同様に、
またそれと同じ厳粛さをもって、彼は、我々の全生活に対する神の力ある要求でもある。」
(バルメン宣言第2項)

イエス・キリストは罪からの救い主であり、私たちの全生活の主であり、
イエス・キリストが支配しない領域はない。

イエス・キリストが私の、教会の、この全世界の主であることを
告白し、このお方と同じ位置にほかのなにものもおかないという信仰だ。

この信仰をこの世に告白し、そのとおりに生きる。

このためならば教会は闘争しようが、演説しようが、
何が何でも譲っちゃいけない。

じゃあどうするのか?

そこで考えた二つのこと。

一つには、この信仰告白を脅かすものが何であるかを見極める
洞察力を教会は鍛えていくことだ。
それは日本的なものと聖書的なものを見分ける力とも言い換えられるだろう。

二つには、自分の所属する場の中で信仰を告白していくことだ。
教会と国家が明確に対立し、教会が迫害される時というのは非常事態である。
しかし、そういう事態の時にも信仰告白を貫けるかは、
それまでどのように信仰を告白してきたかが問われる。

キリスト者もほかの人々と同じように、日々色々な権威に取り囲まれながら生活している。
兄弟姉妹、親という家庭における権威、先輩・後輩という学校における権威、
上司と部下という会社における権威、牧師、長老、役員などの教会における権威がある。

相手が未信者であっても、信者であっても、
信仰の告白に生きることを貫くことはそんなに簡単なことじゃない。

勇気がいることだ。

でも、ここを疎かにしていざという時に信仰告白を
貫くことは難しいのではないかと思う。

A先生もそうしたことを仰っていた。

うーん、自分自身のあり方が探られますわ・・・


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