KGKヒデ主事の徒然日記

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問われる説教者

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最近、ブログが長い。
今日はさらに長い。
先に言っておきます。
でも、そこまでして言いたいことなのです。
なので、お許しを。


今日は埼玉県の北部にある(群馬に近接)
児玉福音自由教会で礼拝説教奉仕をさせて頂いた。

主事は学生と関わるだけではなく、このように
地域教会の方々とも礼拝を通して交わる機会がある。
これは大変教えられる事が多く、素晴らしい機会だが、
同時に、教会の礼拝においてみことばを取り次ぐという
働きの責任は重い。

僕は基本的にどこに行くにも何かしらの本を携えている。
今日は片道2時間ということだったので、
いつも以上に読書が出来ることが楽しみだった。

帰り道、湘南新宿ラインのグリーン車(この教会を訪問したときの僕の定番)に
揺られて読んだのが、「説教者を問う」(説教塾ブックレット、加藤常昭著)。

主事になって、いつも一つの問いがある。
「私は自分が語る説教に生きているだろうか?」

このブックレット(といっても200ページ近くあるが)は、
「説教を語る説教者とは何者か」を問うている。
KGKの主事は説教者である。
私は「自分が説教者である」ということの重みを
軽んじていたのではないかと、読み終わった今思う。

特に今日読んだところで印象に残った文章があった。
少し長いですが、これまたお許しを。

『説教が生きた神の言葉であるならば、その説教を語った者が罪を犯していた場合、
説教の言葉がそれと無関係に終わることはないのではないでしょうか。説教者は、
自分が罪を犯すならば、自分が語る神の言葉としての説教によって、まず誰よりも
自分が審きの言葉のもとに立たされることを知らなければなりません。それを深く意識
しない者に説教を準備することすらできるであろうかと思います。そのことを教会も真剣に
受け止めざるを得ません。』

『自分自身が神の言葉の出来事のなかに立ち、神の言葉によって
審かれ、赦され、聖なる者とされます。』

ここで言われている「罪」とは教会戒規へとつながるような罪ですが、
「審きの神の言葉のもとに立つのが、説教者である」ことの重みを
改めて感じました。
同時に、神の言葉のもとに立つことで自らの罪が審かれるだけでなく、
そこで聞こえてくる赦しの宣言(聖なる者とされる)の重みも感じました。

この両方の重みをしっかりと受け止めているかと絶えず自問することが、
説教者田中秀亮を問うことなんだと思う。
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