KGKヒデ主事の徒然日記

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伊勢崎線ブロッククリスマス会

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今日は伊勢崎線ブロックのクリスマス会だった。

学生は3人で、あとは会場教会の牧師(講師)と私の計5人と
こじんまりした集会だった。

一人一品持ち寄ったのだが、みんなケーキ系を
買ってきてしまい、終わった後は何だかお腹の中が
妙な膨満感に包まれていた。

ところで、今日はクリスマス会といっても、
キリストの生誕からメッセージを聞いたわけではなかった。

「キリスト教の基」と題して、
キリスト教信仰の基本、基礎を確認するという内容だった。

1、キリスト教は聖書の宗教
2、神を信じている素晴らしさ
3、神が私の神となってくださることのすごさ

というポイントからお話して頂いた。

聖書から丁寧に説明されて、わかりやすかった。

2のポイントのところでマタイ21:21が引用された。
ここはイエス様がいちじくの木を枯らしてしまわれ、
もし疑わずに信仰を持って、
『この山に向かって、「動いて、海に入れ」と言っても、
そのとおりになります。』
という箇所である。

この箇所はイエス様を妬み、腹を立て、非難する祭司長、
律法学者たちの姿の記事でサンドイッチされている。

先生はこうした前後関係から、著者であるマタイは、
21節のイエス様の言葉の意図は、悔い改めのことを
言おうとしているのだと説明された。

なるほどと思った。

そして、私たちが悔い改めて神を信じるようになることは、
実は山が動くことよりも大きな奇跡であると言われた。

しかし、劇的な出来事がきっかけで信仰を持った経験がないと、
そうは言われてもあまり実感が湧かないかもしれない。

「いや、山が動くことのほうがあり得ないっしょ。」

と言いたくなる。

そして、

「クリスチャンホームだとわりと自然に信仰をもつよね」

と言いたくなる人もいるかもしれない。

しかし、そう言ってしまう時、僕らは罪というものを
軽んじて捉えてしまう危険性がある。

どこか、「あの人よりこの人のほうが神を信じやすい」とか、
「?だから、私は信仰を持ちやすかった」と思ってしまう。

確かに、その人の育った環境や気質・性格などが、
上手くあいまって、信仰をスムーズに持つことはある。

しかし、それは「神の憐れみゆえ」と理解して受けとめないと、
僕らが罪人であることの深刻さを軽んじてしまう恐れがある。

そんなことを思わされた集会でした?
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