KGKヒデ主事の徒然日記

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証しをするって何?

今日参加した学生たちとのミーティングで、
なかなか興味深い話があった。

そのミーティングは、来月にもたれる
合宿(聖書から学ぶ労働観)の準備であり、
講師のY主事との打ち合わせだった。


「クリスチャンが働くことは、神様を証しするため」

という言葉が事の始まりだった。

しかしここで、

「神様を証しするってどういうこと?」

という話となった。

「自分の働く姿を通して、究極的には周りの人が救われることかな」

と、私たちの働く意義(目的)は、
他者が救われることに収束していくのではないか、
という議論になった。

これは案外、僕らもこのように考えているところはないだろうか?

もちろん、自分の働き(働く姿)を通して、職場の人たちが
救われたら、それは大変喜ばしいことだ。

しかし、少々意地悪言えば、

「じゃあ、人が救われなかったら、証はされていない?
もしくはそうした証は不十分?」

と問いかけたら、どう答えるだろうか?


こうした話がされている中で、Y主事が「証し」
という言葉をどう理解しているか、図示しながら尋ねた。

         ノンクリスチャン
職場(社会)     →      教会

皆さんは職場(社会)のノンクリスチャンが
教会に来るようになることを「証し」と理解していないだろうか?

証とはそういう意味なのだろうか?

これは「社会」という言葉をどう理解しているかとも
密接に関わってくる。

この世の中は「社会」という大きな世界があって、
その中の「片隅に」教会はマイノリティーな集団として
存在している、と思う方がいるかもしれない。

しかし、聖書は社会をそのように定義しているだろうか?

実は社会とは新共同訳聖書に見られる用語。

そこでは、

「彼(ネブカデネザル王)は人間の社会から追い出され」

とある。

これは、神が治められる世があり、
その中に人間の社会があるという理解。

聖書で言う社会とはそういう意味として解釈して良いだろう。

話が長く、ややこしくて申し訳ない。

つまり、何が言いたいかというと、
別に聖書は神が支配していないように見える大きな社会という
ものがあって、そこの片隅に真理を掲げ、神の支配の教会が
あると考えなくても良いのだ。

むしろ、そう考えてしまうと、先ほどのような証の考え方が
生まれてくる。

神の領域に引っ張り込んでくるのが証だと。


しかし、この世はすべて神が支配される領域なのだ。

そこに人間の社会があるのだ。

だから、証を何かと問うとは、実は僕らの「社会」を
問うことと関係しているのだ。

そして、神が支配していない領域があるかのような考え方が
吟味される必要があるのだ。

証はどこにいようと、神の前で問われるべき我々の態度であり、
生き方である。

さらにもう一言言うと。

神はご自分の秩序を持って治めているあらゆる組織(教会、家庭、会社etc…)が、
本来の機能を果たすように求められている。

つまり、証とは、そのために最善の努力をすること。
その時々で違う。


たとえ話で説明すると次のようになる。

たとえば定食屋を営んでいたとする。
その定食屋の使命は何か?

それはおいしくて、また、リーズナブルなAランチを
生み出すことである。(別にAランチという呼称でなくても良いが…)

しかし、その店長は薬屋も兼業していて、
薬の調合に評判が良かったとする。
しかし、定食屋で薬を出すことは定食屋の使命ではない。
(まあ、そんなこと実際にはありませんが…)

定食屋の使命は、おいしい定食を出すことである。
薬屋の使命は、よく効く薬を提供することである。

そうするとここから、学生の本分は勉強であるということが、
いえるのではないかとも思う。

ここでさきほどの問いに戻る。

「じゃあ、人が救われなかったら、証はされていない?
もしくはそうした証は不十分?」

証とは、自分がその時いる組織の目的が神の秩序に
照らし合わされた時、本来何をすべきであるかを考え、
それにかなうことに最善の努力をしていくことである。

もちろん、その結果として人が救われるということ(ハプニング)は
あるだろう。

長くなったが、証しという言葉の意味を考える時となった。


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